赤穂浪士とは?歴史が苦手でも大丈夫!3分以内でわかりやすく解説

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毎年、年末になるとテレビ番組の時代劇で「赤穂浪士」が放送されていました。
何回か見たことはあるけど、イマイチ内容がよくわからないままでした・・・。

 

赤穂浪士について調べたところ、理解することができましたので、ざっくりと解説していきます。私のように「赤穂浪士とは何?」と思われている方は、是非読んでください!

 

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「赤穂浪士」とは?

赤穂浪士(あこうろうし)とは、江戸時代の赤穂藩の家臣が主君の仇討(あだうち)をした47人の浪士たちのことです。

 

赤穂藩は現在の兵庫県南西部にありました。

 

江戸城内で赤穂藩主・浅野内匠頭と旗本・吉良上野介との不祥事があり、赤穂藩は取り潰しになりました。元赤穂藩の浪士たちが主君のあだうちをする志士の方々を赤穂浪士といいます。

 

この事件を「忠臣蔵」とも言い、映画・テレビ時代劇で何度も主役を変えて製作・放映されるほど有名な歴史上の実話です。

 

あだうちを成功させた赤穂浪士はヒーロー扱いされましたが、切腹をして武士らしい最期を遂げました。赤穂浪士は東京品川・泉岳寺に葬られています。

 

「赤穂浪士」のあらすじ

忠臣蔵

 

名前が長いので漢字が多くて読みにくいかもしれませんが、ざっくり解説していきます。

 

元禄14年(1701年)3月赤穂浪士藩の藩主、浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が江戸城内で朝廷の使いを接待中に、幕府儀礼職の旗本である吉良上野介吉央(きら こうずけのすけ よしなか)を刃物で切りつけたため、赤穂にある土地を取られてしまい、赤穂藩はつぶされ、浅野内匠頭長矩は切腹を命じられました

 

一方の吉良は、仕事をクビになっただけでした。

 

浅野家は徳川幕府に対して不公平だと思いました。

 

筆頭家老だった大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしお)を首領とする家臣は、亡き主君の敵である吉良上野介吉央を討つ急進派閥と、浅野内匠頭長矩の実弟大学を君主とする、浅野家を復活させて名誉を復活させる2つの派閥ができました。

 

ですが、浅野家を復活させる望みを絶たれた家臣達は、敵である吉良上野介吉央を討つ急進派閥に合流しました。

 

元藩士は江戸に引越し、敵である吉良上野介吉央を討つ準備をしました。

 

東京の本所松坂町の吉良家屋敷を丹念に調べて、あだうちの機会を待ちました。

 

赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助良雄を首領に、大石主税良金・原惣右衛門元辰・片岡源五右衛門高房・堀部弥兵衛金丸・堀部安兵衛武庸ら47名の浪士が、元禄15年(1702年)12月14日に吉良家屋敷に討ち入りに入り、吉良上野介吉央の首をとりあだうちを決行しました。

 

徳川幕府は翌年の元禄16年(1703年)2月に、47名全員に切腹を命じ、品川の泉岳寺に葬られました。

 

47名の赤穂浪士は、翌年2月に切腹するまでの間は、肥後熊本藩の細川家・伊予松山藩の松平家・長門府中藩の毛利家・三河岡崎藩の水野家の4大名家に預けられ、手厚くもてなされたようです。

 

47名の内1名は密命を受け江戸を離れたと言われています。

 

「赤穂浪士」の生き残り、寺坂吉右衛門のその後

 

寺坂吉右衛門伸行(てらさか きちえもん のぶゆき)は、元赤穂藩家臣で船方役人を努めていました。

 

吉良上野介吉央のあだうちを終えた後、赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助良雄の密命を受けて浅野家へ報告するため、江戸を離れました。

 

その後、徳川幕府や吉良家からの追跡も処分もなく、現在の兵庫県西南部を治めていた姫路藩に仕えました。

 

晩年は江戸に戻り、東京麻布・曹渓寺(そうけいじ)の寺男(寺で働く下男)になりました。江戸時代にしては長生きをして83歳で旅立ちました。

 

「赤穂浪士」を「忠臣蔵」と呼ぶわけ

 

このあだうち事件を「忠臣蔵」と言い、実際の事件が起きた50年後(1748年)に「人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)=文楽」と「歌舞伎」の演目「仮名手本忠臣蔵」になりました。

 

「仮名手本忠臣蔵」では演目名が長いので「忠臣蔵」になりました。

 

若い方の多くは「忠臣蔵」を知らないと思います。

 

西暦2000年(平成12年)以降は、映画化・テレビ時代劇が製作されていません。BS放送・CS放送・U-NEXThuluで昔の時代劇を放映していますので、参考に視聴してみてはいかがでしょうか?




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「赤穂浪士」と「新撰組」は無関係

 

『赤穂浪士』と『新選組』は関係があると思われている方がいますが、まったく関係ありません。

 

『赤穂浪士』は5代将軍の徳川家綱公の時代で、西暦では1702年~1704年に活躍された志士です。活躍された地域も異なります。赤穂浪士は赤穂藩(兵庫県)と江戸(東京)で活躍しました。

 

『新選組』は14代の将軍の徳川家茂公の時代で江戸末期に活躍した警備隊です。西暦1863年に結成されて、京都の街を中心に見回り警備を行いました。

 

新選組は浪士が集まった組織です。新選組は近藤勇・芹澤鴨・土方歳三・沖田総司などが活躍しました。

 

赤穂浪士が活躍した時代は260年続いた徳川幕府の中で安定した時代に起きた事件です。

 

元禄年代は文治政治が展開し、町人の勢力が台頭して社会は活気を増しました。

 

新選組活躍の時代は幕末で徳川幕府が大政奉還する4年前です。

 

タイムラグが160年以上あります。赤穂浪士、新選組も実在した集団ですが、双方の関係はまったくありません。

 


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最後に

年末に近づくと、中高年以上の方々の中には12月14日に起きた、

 

元浅野家家老の大石内蔵助良雄を首領とした赤穂浪士隊が、吉良上野介吉央に対して主君のあだうちを果たした実話

 

を思い浮かべることがあるようで、品川にある泉岳寺をお参りする方々もいるようですよ。

 

なお、浅野が吉良を切りつけた理由は不明のままです。

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