『ボヘミアンラプソディ』は事実と違うところがある!更に感動する本当のストーリー

 

『ボヘミアン・ラプソディ』の映画は、事実と違う内容があるとか、時系列が違う、と違和感を持つファンもいます。映画を観て感動したけど、「事実を知りたい!」という方のために、事実と違うところ、本当のストーリーについて書くことにしました。お読みいただくと、ライヴエイドがクイーンにとって大切なステージだったことがわかっていただけます。

 

フレディがクイーンの前身バンドのスマイルに加入した時期が違う

 

映画では、フレディがブライアンとロジャーが在籍していたバンド、スマイルのライブを見た後、ボーカル兼ベースのティム・スタフェルが脱退し、フレディが二人の前でアカペラを披露、曲も作るとアプローチしたことが切っ掛けで、二人はフレディがアカペラを歌い出すまでは、この出っ歯の男に歌えるのかよ・・・。と期待していませんでしたが、すぐにメンバーに迎えたことになっています。

 

実際は、フレディはずっと前からスマイルのファンで、しかもティムとは長年の友人でした。

 

スマイルは1968年10月に当時大学生だったブライアンとティムのバンドが学校の掲示板にバンドメンバー募集のチラシを貼り、所属していたバンドが解散になりそのチラシを見たロジャーがコンタクトを取ってきて加入しました。

 

1969年にティムがリハーサルに友人のフレディを連れてきたことで、フレディはファンになりアドバイスを言うようになりました。やがてスマイルはイエスやジミ・ヘンドリックスなどの前座を務めるまでになりました。

 

フレディは徐々に音楽に傾倒していき、自分もスマイルのメンバーになりたくて、

 

「自分が歌うから一緒にバンドをやろう!」

 

としつこくアプローチしてきました。

 

ですが、ブライアンたちは本気にしていませんでした。

 

その理由は、当時、フレディは美術大学の学生で、多くの肖像画、ポップアートなどを作成し、洋服のデザインも手がけ、ファッションショーで多くの作品も発表していたからです。

 

ブライアンはしつこくアプローチしてくるフレディに対して、

 

「優秀なデザイナーだし、派手好なだけで音楽は趣味だ」

 

と思って本気にしていませんでした。

 

また、友人の中には、音楽よりグラフィックの道に進むべきだと助言する人もいたほど、デザイナーの才能があったのです。

 

そんな時、ボーカル兼ベースのティムが1970年3月にスマイルを脱退し、ブライアンは以前からしつこくアプローチをしてきていたフレディのことを思い出し、一緒にやってみるか…、ということになりました。

 

ティムが脱退した理由は、方向性の不一致で、「3人と意見が合わなかった」と後のインタビューで語っていました。3人は劇的な要素を含むショウとしてのステージをしたいと思っていましたが、ティムは純粋なロックをしたかったようです。

 

3人とは、ブライアン、ロジャー、フレディのことです。

 

フレディはまだメンバーではありませんでしたが、ティムとは友人ですし、ライブを聴きに行くと「自分ならこうする」などスマイルに意見を出していました。

 

ブライアン、ロジャー、フレディは方向性が合っていましたが、ティムは合わなかったため脱退したことは、インタビューでティムが語っており、「脱退してよかったよ」と笑顔で話していました。

 

なお、バンド名をスマイルからクイーンに変更したのは映画のとおり、フレディの提案です。

 

ちなみに、ティムはスマイルを脱退後、違うバンドに加入しますが、70年代の中頃になると音楽業界を離れ模型製作の道に進み、日本でも有名な『きかんしゃトーマス』シリーズの“トーマスとなかまたち”を手掛けました。

 

その後、フレディが亡くなった後の1992年12月22日に開催されたクイーンのファンクラブのクリスマスパーティで、ロジャーのバンド、ザ・クロスの前座として、ブライアン、ロジャーと共にステージに立ちました。

 

さらに、『ボヘミアン・ラプソディ』の映画にも協力しています。

 

ブライアンからメールが届き、この映画にスマイルの存在が必要だと告げられ、ティムが去る最後のライブシーンのヴォーカルとベースを担当しています。

 

その曲『Doing All Right』は現在版にアレンジされ、『ボヘミアン・ラプソディ』のサウンドトラックに収録されています。

 

ティムは自分よりピュアな声を持ち繊細に歌うことができるフレディの歌唱力を羨ましがっていましたが、ティムも優しい声をしています。

 

こちらに収録されています↓

 

 

ジョン・ディーコンの登場シーンが違う

映画では、1970年のクイーンの初ライブでベーシストとして登場していますが、ジョンが実際にメンバーに加入したのは1971年2月です。

 

ジョンはオーディションの結果、ベーシストとして加わり、その後、メンバー変更も脱退者もいません。

 

ジョンに決まるまでクイーンには6人ものベーシストが入れかわり加入していました。

 

フレディが亡くなったことで、ジョンはかなりのショックをうけ、うつ状態になり私生活も乱れたうわさがあり、フレディがいないクイーンはクイーンではない、というようなことを思ったらしく、1997年に発表した『ノー・ワン・バット・ユー』を最後に、音楽業界から去りました。

 

ジョンはとても温厚で思いやりがあり、関係者からの印象もとてもよい方でした。

 

クイーンのメンバーに選ばれたのも、ベースのテクニックより人柄が評価されたからだ、という意見もあるほどです。

 

映画では、メンバーの人柄やフレディとの関係性がわかるように描かれています。

 

フレディがエイズの告白をメンバーにした時、ジョンだけ涙を流すシーンがあり、ジョンの人柄が表現されています。

 

フレディが亡くなったのが1991年なので、6年ほど頑張って音楽活動をつづけたこと、その結果クイーンを脱退するのではなく、音楽業界から立ち去ったことからも、ジョンの人柄を垣間見ることができます。

 

ですが、音楽業界を去ったジョンに対して、ブライアンとロジャーは、今でもジョンはクイーンのメンバーだと語っていて、戻ってくることがあればいつでも歓迎すると言っています。

 

なお、1970年からクイーンと名乗り始めましたが、ジョンが加入した1971年を正式なクイーン結成としています。

 

ジョンやティムとの関係といい、クイーンは音楽だけでなく、バンドとしての魅力も感じます。

 


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メアリーとフレディの出会いの詳細

映画では、スマイルのライブを見に行った時にメアリーと出会った設定になっていますが、実際は、ブディック店員だったメアリーに最初に声を掛けたのはブライアンでした。

 

メアリーが勤めていたブディックは美人揃いだったとブライアンが語っていて、フレディがメアリーに惹かれていることはブライアンにもまるわかりで、ブライアンからフレディに紹介しました。

 

ですがシャイなフレディはブディックを訪れても、笑顔でメアリーに挨拶することが精一杯で、半年後ぐらいにデートに誘い二人はとても意気投合し6年間同棲をしました。

 

その後、フレディがゲイであると告白し恋人から親友へとなりましたが、フレディのために表向きは恋人関係を装っていました。

 

メアリーとお付き合いする前にも、何人かの女の子とお付き合いをしていたフレディでしたが、メアリーみたいな女性は二人といないと語っていました。

 

フレディは自分が亡くなった後、みんなで自由にこの家に住んでいいからね、と言っていたのですが、遺言書に記載がなかったとの理由で、メアリーは恋人のジムまで追い出し、住みはじめたことや、ジムにつらくあたっていたことなどから、あまり良いイメージはありませんが、フレディにとってはとても大切で信頼できる人だったのでしょうね。

 

なんとなく顔がフレディが大好きだった女優さんのマレーネ・ディートリッヒに似ているな、と思うのは私だけでしょうか…。

 

映画では、フレディの自宅に大きなマレーネ・ディートリッヒのポスターが貼られています。

 

メアリーに指輪をプレゼントするシーン

映画の中で、フレディがメアリーに指輪をプレゼントするシーンがあります。メアリーは大喜びし、二人は幸せいっぱいで見ているこちらも幸せになるほどでした。

 

実際は、メアリーが箱を開けるとまた箱があって、空けるとまた箱があって、最後に指輪が出てきたそうです。

 

フレディのおちゃめぶりがわかりますが、映画では箱を開けると指輪になっています。

 

レコード会社の重役は実在しない

ボヘミアン・ラプソディの曲を毛嫌いしてシングルでのリリースに大反対したレコード会社の重役、レイ・フォスターは実在しませんが、モデルになった人はいます。

 

EMIのロイ・フェザーストーンで、クイーンの大ファンでしたが、この曲に関しては6分は長すぎると思っていましたし、新しく迎い入れた元エルトン・ジョンのマネージャーのジョン・リードも反対していました。

 

ジム・ハットンとの出会いとジムの職業が違う

ジム・ハットンと出会った場所、お付き合いをはじめた切っ掛け、ジムの職業が事実と違います。

 

映画では、ジムが仕事でフレディ邸でのパーティーの後片付けをしているところにフレディが話しかけ、その後、電話帳でジムの自宅を探しフレディ自らジムの家を訪問して再会、という展開になっていますが、事実と合っているのは、フレディから声を掛けたところだけです。

 

ですが、フレディが電話帳でジムを探した設定にしたシーンについては、フレディのことが解ってるな、と思い胸が熱くなりました。

 

というのも、フレディは子供の頃から愛に餓えていたけど、弱音を吐くこともなく、ひたすら家族を励まし、自分自身を励ましつづけて、大スターになってからは孤独が襲ってきて夜は寝ることもできない生活をおくっていました。

 

淋しさを紛らわすためパーティを開いたり、出会いを求めてクラブへ出かけたり、パートナーを見つけるためお付き合いをしては別れてを繰り返して探してたのです。

 

フレディは、

 

「パートナを探しているけど難しい」

 

とインタビューで語っていたことがありました。

 

そんな時、出会ったのがジム・ハットンでした。

 

「やっと安らぎの場所を見つけた。誰にもじゃまさせない。」

 

とインタビューで語り、ジムと生活を始めてからのインタビューでは、落ち着いた生活を過ごせるようになったと答えていました。

 

ジムと出会った翌年、フレディはソロデビューしたアルバムから『I was born to love you』をリリースしました。

 

『I was born to love you』はジムへ捧げられた曲だと言われており、ジム自身も自分への曲だと信じていました

 

フレディは「曲の解釈は聴く人に受け止めてもらい、自分から説明しない。」と言っていましたが、『ボヘミアン・ラプソディ』は自分のことだし、『Life of My Life』は元恋人のメアリーに捧げた曲だと言われていますので、ジムへ捧げた曲があっても不思議ではありません。

 

安心してお付き合いできるパートナーを探し求めてやっと見つけた、という喜びが『I was born to love you』から伝わってくるので、ジムに捧げた曲なのだと思います。

 

インタビューでの、「ジムとの関係を誰にも邪魔させない」という発言や、「お前のためにオレは生まれてきたんだ!お前を愛したい!」と喜びにあふれた歌詞やメロディからもジムへの想いがうかがえます。

 

この頃はバンド解散の危機もあったため、ジムとの出会いはフレディにとってとても大きかったのではないかと思います。

 

フレディにとってやっと見つけたのがジムだったので、電話帳でジム・ハットンを探してやっと見つかった、という設定にしたことは観客にフレディへの想いが伝わるシーンになっていると思いました。

 

なお、ジムはサヴォイ・ホテルに勤務していた美容師で、出会ったのはゲイの集まるナイトクラブでした。

 

最初の出会いは、ゲイが集まるクラブで、フレディからジムに「一杯ごちそうしたい」と声を掛けましたが、ジムはパートナーと一緒にいたため、丁寧に断られてしまいました。

 

その後、別のクラブで再会し、フレディはジムにお酒をご馳走することができて交際がスタートしたのです。

 

家族にジムを紹介したシーン

映画では、実家でフレディが家族にジムを紹介するとき、「友達だ」と言いますが、実際は、庭師だと紹介していました。

 

フレディの自宅は、ローズ・ガーデンと呼ばれ庭園があるので、庭師がいても不思議ではありませんでした。

 

映画では、友達と紹介していましたが、ジムの手の上にフレディがそっと手を重ねるところで、家族は友達ではないと察するシーンになっていました。

 

実際、フレディは家族にゲイだと打ち明けたことはなかったといわれています。

 

フレディより先にソロデビューしたのはロジャーだった

映画では、フレディがソロになることでメンバーとの仲に亀裂ができた設定になっていましたが、実際は、ロジャーの方が先にソロデビューしています。

 

クイーンは一度も解散していないが解散危機はあった

ライヴエイドのシーン前では、フレディがソロになるとかでメンバーとの間に亀裂が入り、1対3になり疎遠になった設定でしたが、クイーンは一度も解散したことはありません。

 

ですが、クイーンとしての活動を休止していたことはありました。1982年の終わり頃から1983年の夏頃までの約1年半です。

 

この頃は人気の絶頂期は過ぎていて、アルバムを作ってはツアーを繰り返すことに物足りなさを感じていたことやメンバー間での口論などがあったからです。

 

なお、ライヴエイドがなかったら解散していたかもしれない、とメンバーは思っていたそうです。

 

映画に描かれていないクイーンの危機

1984年になると解散説がより強くなりましたが、「解散はありえない」とフレディはメディアに全面否定していました。

 

ですが、バンドの解散というより、もっと深刻なクイーンとして継続できるか!?の危機はありました。

 

それについては、映画ではとりあげられていません。

 

バンド継続危機は、1984年10月に南アフリカのサンシティでライブを開催したことからはじまります。

 

この当時、南アフリカではアパルトヘイト政策(白人が黒人を支配する政策)が起こっていて、イギリスの音楽家ユニオン(音楽家など音楽関連の個人加盟制の労働組合)はイギリスの音楽家やミュージシャンが南アフリカでコンサートをしないことと宣言していました。

 

ですが、クイーンはライブを開催し、イギリスの音楽家ユニオンからは制裁金を課せられ、国連からはブラックリストにマークされたのです。

 

ジョンは、「政治や社会性のあることには首を突っ込まないようにしている。望まれているところへならどこへでも行く。」とインタビューに語っていたことがありました。

 

後のブライアンのインタビューによると、まず、アパルトヘイトには反対していたこと、

 

南アフリカでライブを開催するにあたり、ビジネスマネージャーのジム・ビーチが現地へ出向いて事情を調べ、一年近くかけて検討した結果、開催することにしました。

 

なので、軽い気持ちでライブを開催したわけではないことがわかります。

 

ブライアンは音楽家ユニオンから何度も呼ばれ、開催した経緯などを説明したところ、わかってはもらえたけど、規則に反したということで制裁金を払うことになったのです。

 

一件落着かと思った矢先、1984年11月25日、ミュージシャンが集まってチャリティソング『Do They Know It’s Christmas?』の録音が行われましたが、クイーンは自分たちのレコーディングと重なるため参加を断りました。

 

そして、今度はクイーン自ら危機を起こしてしまいました。

 

1984年10月の南アフリカでの出来事があり、バンドとしての倦怠感なども抱えたクイーンは、気持ちを切り替えるため、ブラジルのリオで開催された「ロック・イン・リオ」へヘッドラナーとして参加しました。

 

クイーンにとって南米は温かく受け入れてくれるフィールドだったこともあり、心機一転するにはいいチャンスでしたが、アンコールのステージで大ブーイングを引き起こしてしまったのです。

 

1984年リリース、『ザ・ワークス』からのシングル曲「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」のPVと同じ、女装のコスプレで登場したフレディに対して、観客はステージに物を投げ込み大ブーイングの嵐になりました。

 

それまでは、25万人の客観と一体となり盛り上がっていたのに、大ブーイングへと一変したわけです。最悪なことに、25万人以外にも、南米全土へテレビ中継されていたので、2億人の人々が見ていました。

 

ブーイングだけですみそうもないほどの危機感もあり、クイーンは身の危険を感じライブ終了後は逃げるように会場を去りました。

 

クイーンは事情がわからず、というか想像もしていなかったのでPVと同じ女装で登場したわけですが、この『ブレイク・フリー』という曲は、貧困階級の労働者にとって思い入れのある大切な曲だったのです。

 

自分達にとって心の支えとなるほどの大切な曲なのに、女装して登場したことでバカにされたというか、否定されていると受け止められてしまったのです。

 

クイーンとしては、観客を楽しませたい、という気持ちだったのだと思いますが、単に曲が好き、というだけでなく、その曲を支持したくなる切実な環境がベースにあることまでは気づいていなかったわけです。

 

メンバーの中で、ジョンが世界情勢や社会的な情報に詳しいので任せているとメンバーが語っていたことがありますが、先ほども書いたように、ジョン自身、「政治や社会情勢などには首を突っ込まず、望まれればどこへでも行く。」と言っていたように、社会的問題などに関係なく、喜んでくれるところがあれば出向いて行く、というスタンスだったし、何より観客が喜んでくれることを大切にしているので、アンコールの女装もサービス精神だったのだと思います。

 

だけど、それが裏目で出てしまったようです。

 

心機一転するつもりが、最悪な結果を招いてしまいました。

 

更に、1985年4月5日、クイーンは初めてニュージーランドでコンサートをするため空港に到着すると、待ち受けていたのはデモ隊でした。

 

1984年、アパルトヘイト政策を掲げた南アフリカでコンサートを開催したことで、抗議するデモ隊が集まっていたのです。

 

デモ隊は空港以外にもホテルの前にも押し寄せていました。

 

ニュージーランドで無事にライブを終え、オーストラリアへ移動しますが、最後の公演日はステージ上のトラブル(音響と照明)があり、悲惨なライブになりました。

 

1984年にリリースした『ザ・ワークス』は商業的にも成功しイギリスでも1位になりましたが、1984年の南アフリカから空回りしているようで負の連鎖が続いています・・・。

 

クイーンは解散するのではないか?という噂が流れました

 

そのような状況の中、1985年5月に6度目の来日をし、これが日本で最後のライブとなりました。

 

日本ではデモ隊もおらず、歓迎され、クイーンにとっても日本は南米と同じく、温かく迎い入れてくれるフィールドでしたが、それでもチケットは完売しておらず、『夜のヒットスタジオ』へ宣伝のため顔を出したほどです。

 

フレディ以外の3人のメンバーが、日本武道館ライブの後にスタジオに登場したのです。

 

ライブは、以下の日程でした。

 

8日(水)東京:日本武道館
9日(木)東京:日本武道館
10日(金)東京:代々木体育館
11日(土)東京:代々木体育館
13日(月)愛知:名古屋愛知県体育館
15日(水)大阪:大阪城ホール

 

この時、女性歌手から花束を渡されましたが、花束は2つしか用意されておらず、ジョンはもらえませんでした。

 

ブライアンには小泉今日子さん、ロジャーには石川さゆりさんから花束が渡されました。

 

手違いなのかわかりませんが、急きょ出演することが決まったのかもしれません。でも、メンバーは4人なので、4つ用意すればいいのに、と思いましたけどね。

 

ブライアンもロジャーも武道館ライブは最高だった、とにこやかに答えていましたが、ライブの模様がチラリと流れた後、司会の井上順さんが、「コンサートに行ってください」と宣伝していました。

 

ライブ前の前年にも、ジョンとロジャーはアルバム『ザ・ワークス』のプロモーションとプライベートを兼ねて来日したとき、『笑っていいとも』に出演していました。

 

このように、この時期は度重なる出来事が勃発したり、メンバーの倦怠期があったりと問題を抱えメンバー自らが営業周りをしていたほどで、解散説が流れるのも仕方ないという状況だったのです。

 

この状況をなんとか打破しようとして、参加したのが『ライヴエイド』でした。

 

ですが、当初は断っていたのです。

 

ライヴエイドへの出演を断っていた

ライヴエイドのクイーンのパフォーマンスは絶賛されて今でも伝説になっていますが、クイーンにとっても、もしかしたら解散になっていたかもしれない危機を救った大切なライブになりました。

 

映画では、フレディにライヴエイドの出演オファーの知らせが届かない設定になっていましたが、当初、クイーンは出演を断っていました。

 

ボブ・ゲルドフ(アイルランド出身のミュージシャンでライヴエイドの発起人)は1984年にエチオピアで餓死している難民を救済するためライヴエイドを企画し、世界的に有名なバンドの出演が必要だと考え、その中にクイーンの名前も入っていました。

 

クイーンのツアーメンバーでキーボードを担当していたスパイク・エドニーに出演交渉をしましたが、クイーンは断りました。

 

クイーンとして活動するモチベーションも下がっていたし、派手な照明もない質素なステージで20分ということで断っていたのですが、ボブがクイーンのマネージャーだったジム・ビーチ(映画『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディがマイアミ・ビーチを呼んだ弁護士)に直接交渉しました。

 

ボブは、クイーンの状況を打破するためにも出演すべきだと説得をし、日本公演が終わってからようやく出演すると返事をしたのです。

 

ボブが交渉したのがニュージーランド公演の時でしたので、1ヵ月ほど考えたことになります。

 

1984年からクイーンには問題が勃発していたため、ライヴエイドでの失敗は許されませんでした。

 

映画でも、大物ミュージシャンばかり出演し15億人以上の世界中の人々が視聴するというシーンでメンバーの緊張が表現されていました。

 

クイーンは20分間のステージのために、ホールを3日間貸切り、入念なリハーサルを何度も繰り返して本場に臨みました。

 

12時から始まったライヴエイドのクイーンの出番は18時40分頃で、クイーンの後にはデビッド・ボウイ、当時大ブレイク中だったワムも控えていました。

 

いつものライブ開始前も緊張はつきものでしたが、ライヴエイドの時の緊張度はかなりのものでした。

 

ですが、クイーンは聴衆の心をつかみ、ライヴエイドの主役となったのです。

 

「ライヴエイドの成功はすべてフレディのおかげだ」と、後にブライアンはインタビューで答えています。

 

【補足情報】クイーンのライヴエイドが伝説になったわけ

ボヘミアン・ラプソディの映画では、最後のライヴエイドでのステージが感動的なシーンになっています。

 

なお、映画ではあまり表現されていませんが、ステージの開始前、メンバーはめちゃくちゃ緊張していました。

 

いつものライブ前も緊張していましたが、ライヴエイドはクイーンにとって失敗が許されないステージだったので、みんなナーバスになりかなり緊張していたようです。

 

ライヴエイドのクイーンのパフォーマンスは今も称賛されていますが、数多くの大物アーティストが出演していたのに、なぜクイーンがこんなにも絶賛されるのか映画ではあまり伝わってこないと思いますので、補足しておきます。

 

12時間におよぶライブで、観客はクイーンがステージに立つ前にすでに疲れていました。

 

ところが、クイーンが現れると、観客は突然眠りから目覚めたかのように生き生きとし出して、フレディが歌い出すと一緒に歌い、ステージと観客とが一体になったのです。

 

また、映画でクイーンがステージに立ち始めてから寄付がどっと集まってきて、100万ドル(1ドル110円として日本円で1億1,000万円)に達したとありますがそれは事実です。

 

 

後にブライアン・メイが、

 

ライヴエイドのステージはフレディのおかげ
フレディは観客から何かを引き出したんだ

 

とインタビューで答えていましたが、フレディは観客だけでなく、TVを見ている人達からも何かを引き出したということになります。

 

クイーンはこのステージに掛けていたので、他のミュージシャンとは意気込みが違っていました。

 

メンバーは再び一致団結し、復活を果たしたのでした。

 

それはステージにも表れていて、『ザ・ワークス』のツアーと、1986年のWembleyのステージとでは一目瞭然です。

 

ライヴエイドは久しぶりのステージではなかった

映画では、フレディは久しぶりにステージに立つので声が出るか不安がっていましたが、ライヴエイドの前の年、1984年にアルバム『The works』を発表しており、このツアーを8週間前に終えたばかりでした。

 

そのツアーとは日本公演です。

 

ですが、このツアーでのライブは演奏にまとまりもなくがっかりしたファンもいたほどです。

 

映画では、久しぶりのメンバー揃ってのライブの設定になっていましたが、実際はツアーはしていたけど演奏がうまくいくかの不安は抱えていたわけです。

 

そういう意味では、不安だったことは確かです。

 

フレディがHIV感染を知ったのはライヴエイドの後

 

映画では、ライヴエイドのリハーサル中にフレディがメンバーの3人にエイズに感染したことを告白するシーンがありますが、実際にエイズに感染したことがわかったのは最後の恋人のジムによると1987年のイースターの後あたりなので、1987年の夏前あたりになります。

 

フレディの憧れのオペラ歌手、モンセラート・バリエと共作でアルバム制作に取り掛かった頃です。

 

この頃、フレディの顔の印象が今までと違います。

 

 

その当時、メディアはフレディはエイズではないか?と大きく取り上げていました。

 

エイズであることは否定していましたが、1988年4月に、エイズ支援団体(テレンス・ヒギンズ・トラスト)のチャリティーショーに出演しています。

 

メンバーは薄々気づいていたし、フレディからは

 

病気のことは知っているだろう?
けど、自分の病気について語りたくない。
仕事をしたいので協力してほしい。

 

とだけ告げていました。

 

余命が長くないと思ったフレディは、

 

ギターなどの楽器の音源は自分がいなくなった後でもいいから、ボーカルの自分の部分だけ早く作業をしたい。

 

とメンバーにお願いしていました。

 

フレディの性格とメンバーとの関係

映画では、フレディが暴走してメンバーと1対3の対立になっているイメージがありましたが、このようなことはなかったと思います。

 

フレディは短気なところもあった、とブライアンはインタビューで語っていたことがありますが、曲を作るときは4人でいつもケンカをしていました。

 

ブライアンとロジャーが意見の対立で激しくぶつかっていた時、仲介したのはフレディでした。

 

そんなフレディは、完璧を求めることがあって自分でも極端な性格だと言っていました。

 

メアリーが飾ったお花の位置が気に入らないから捨てたり、一番可愛がっていた猫「Delilah」(ディライラ)がいなくなった時、壺を窓から投げ捨てたりしたことがありましたが、普段はチャーミングでとても優しい方だったようで、インタビューなどからも伝わってきます。

 

あ、猫ちゃんは後で見つかったそうです。

 

人数分のフォークがなくて1本足りなかったとき、自分は後でいいからとみんなに先に食べるようにすすめたエピソードもあります。

 

圧倒的な存在感からか、クイーンのリーダーだと勘違いされることがあって、インタビューでも「あなたがリーダーですよね?」としつこく質問された時、

 

僕はリーダーじゃない。クイーンはみんな平等なんだ。

 

と答えていました。

 

それでもしつこく「リーダーでしょ?」とくいついてくる記者に対して、何度も優しく「僕はリーダーじゃない。クイーンはみんな平等なんだ。」と笑顔で何度も答えていたのが印象的でした。

 

フレディのインタビューをとるのは大変だと言う記者もいましたが、ライブで喉を傷めて声を出すのが痛い時などはドタキャンがあったり、突然OKがでたりと振り回されることがあったそうです。

 

ですが、フレディの顔を見ると、許してしまうくらいとってもチャーミングな人だったようです。

 

フレディは同情されるのが嫌いだったし、とても前向きな人でした。

 

家族でイギリスへ移住してきて生活が一変した時、

 

みんなで頑張れば大丈夫だよ

 

と、とても張り切っていたと母親が語っていたことがあります。

 

エイズに感染し亡くなるまでも前向きでした。

 

メディアからエイズだとさんざん報道されても否定し続けたのは、

 

  • 同情されたくなかった
  • 発表すると二度と自宅から出られなくなるから
  • メンバーや周囲の人達を守るため

 

でした。

 

メディアからは、「どうして立て続けにアルバム制作をするのか?」などの質問もありましたが、ロジャーはフレディの病については触れることはありませんでした。

 

そのような理由で、フレディの病を知っていたのにメンバーたち関係者は嘘をついていたことになるからです。

 

フレディはみんなのことを守るため、公表することには慎重になっていて、公表した翌日に去りました。

 

エイズの感染をかたくなに否定していたことや、その理由もフレディの性格を表していると思います。

 

ロジャーは後に、これらのアルバム制作の時、とても一致団結していたと語っていました。

 

なお、フレディとロジャーはウマが合い、出会った頃一緒に古着屋を営業していたし、フレディの最後の恋人のジムは、二人は完全なソウルメイトだったと著書に書いています。

 

ロジャー自身も

 

フレディの近くにいることができて本当に良かった

 

と語っていました。

 

映画の中でも二人の仲の良さを伺うシーンがいくつかありました。

 

ロジャーはフレディが短髪&口髭にイメチェンしてきたとき「ゲイみたいだな」とストレートに言ったり、孤独なフレディがロジャーに「一緒に夕食を食べよう」と誘うシーンなどです。

 

映画では、自己主張が強く暴走しているイメージがありますが、愛されキャラだったし太っ腹なところもありました。

 

フレディの優しさや太っ腹がわかるエピソードがありますので紹介します。

 

フレディのボディーガードをされていた伊丹久夫さんってご存知ですか?

 

来日したとき、メンバーの一人ひとりにボディーガードがついていて、フレディを担当していた方です。

 

伊丹さんは、クイーン以外にも海外の大物スターのボディーガードをしましたが、クイーンが一番印象に残っているそうです。

 

イギリス人は、信頼を置く人にはカルティエを贈るんだ

 

と言い、フレディから置時計、カフス、ライターなどをプレゼントされたそうです。

 

腕時計を贈られた時は、帰国するため空港へ向かっている道中に、カルティエのショップに立ち寄り、

 

「好きな腕時計を選べ」と言われ、伊丹さんが一番安い時計を指差したら「こっちにしろ」と一番高い腕時計を買ってくれたそうです。

 

伊丹さんは今でもフレディから贈られた腕時計を身に着けて遺品として大切にされているようです。

 

また、伊丹さんの会社が創業10周年の時、伊丹さんたちには内緒でサプライズパーティーを開いてくれて、豪華なケーキを用意してくれたり、ボディ―ガードと通訳のみを吉兆などの高級料亭へ招待してくれたことが何度もあったそうです。

 

フレディからの最後のプレゼントは日本刀で、剣道のチャンピオンになったことがあると話したことを覚えてくれて選んだくれたのだと思い、胸が熱くなったそうです。

 

伊丹さんのお話しからも、フレディが優しくて思いやりのある人だったことがわかります。

クイーンの歴史や素顔を見ることができる【3つの動画】

『ボヘミアン・ラプソディ』の映画影響で、クイーンのことをもっと知りたい!という人が増えていますね。

 

クイーンの歴史や素顔を見ることができるドキュメンタリーの映像はいくつかあり、その中でもファンのイチオシは『マジックイヤー Vol.1〜3』です。

 

曲も聴けるし、ライブ前のメンバーの姿や、素顔を見ることができるのできる貴重なお宝映像なのですが、残念ながらDVD化はされていなくて、ビデオでなら手に入ります。

 

ビデオだからでしょうか・・・、アマゾンのページで画像がありません^^;

 

 

ビデオを持っている人はほとんどいないと思うので、次にオススメなのは『輝ける日々』です。こちらはDVDです。輸入盤だと日本語字幕がありませんので注意してください。

 

ジャパン・スペシャル・エディションの方は、日本語字幕付きで、通常版に加えて、「クイーン・イン・ジャパン1975」と1982年の日本公演の映像、日本語で歌っていた「手を取り合って」のプロモーションビデオなどが追加されたスペシャル版です。

 

通常版が221分のところ、日本版は266分と見応えもたっぷりです^^

 

 

こちらは、クイーンの1973年から1980年代までの映像『クイーン ヒストリー 1973-1980』です↓

 

 

クイーンの曲に加えて、歴史や素顔もわかるDVDは上の3つですが、一番オススメの 『マジックイヤーvol.1~3』がビデオだけなので、見るのであれば『輝ける日々』をオススメします。

 

『クイーンヒストリー 1973-1980』はライブシーンやフレディのインタビューの映像もありますが、評論家たちがクイーンについて語っているシーンが多いです。

 

バンドとしてのクイーン、クイーンの歴史、音楽に加えて、フレディのこと、ブライアン・メイのギターテクニックなどについて数人の人達が語っています。

 

ジョンやロジャーについては一言触れているくらいです。ブライアンのギターのテクニックに興味がある人やクイーンの歴史について知りたければ参考になります。

 

ブライアンは素晴らしいギタリストだけど、クイーンはフレディがいたから売れた、とキッパリと語っている方もいます。

 

ビデオやDVD以外でクイーンを見たい方は、3つ目に紹介したクイーンヒストリー』であればU-NEXTで見ることができます。

 

『クイーンヒストリー 1973-1980』はU-NEXTの動画で見てから、手元に欲しければ購入した方がいいと思います。

 

予告動画もありました↓

 

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クイーンのライブのDVDは必見

クイーンのドキュメンタリーが見られる動画を紹介しましたが、ライブ映像でオススメのDVDについても紹介しておきます。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』の映画で感動したのであれば、更に感動するはずです。

 

▼『ロック・モントリオール1981&ライヴ・エイド1985

ライヴ・エイドも見たいのであれば、間違いなくこのDVDです。モントリオールのライブは1981年ですが、映像自体がとてもキレイですし、ライブパフォーマンスも素晴らしいです。

 

クイーンのライブはステージの演出がとても豪華です。メンバーがステージに出てくる前から、演出がすごくて圧巻です。

 

照明が自由に動いたりして、まるでロボットみたいでお金かかってるなーと思います。

 

 

クイーンのロック・モントリオール1981のライブ映像が、動画配信のU-NEXTでも視聴できるようになりました!

 

無料コンテンツなので、登録するだけで見ることができます。31日間の無料体験中、何度でも無料で視聴できるなんて、U-NEXTさん、太っ腹すぎます!視聴者も星5つをつけているので高評価です。

 

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▼『ラスト・ツアー/クイーン1986

タイトルのとおり、最後のツアー映像です。
フレディが上半身裸で王冠と白い毛のついた赤マントを羽織っていたライブです。

 

1985年のライヴ・エイドで復活をした後なので、メンバーのモチベーションもものすごく、バンドとしても一致団結していて最高なライブだったことに加えてクイーンの最後のライブツアーになったことから、伝説のライブとまで言われています。

 

おまけで楽屋でのメンバーの様子なども収録されています。

 

 


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